先月放送された『ブラタモリ』 はご覧になりましたか?
このブログでも放送日をお知らせしたりしていたのですが、宝塚が取り上げられた回でした。

その放送の中で、タモリさんさんたちが宝塚のルーツを探るべく訪れた「小浜宿」
そこで江戸時代の人々を魅了したものとして小浜のお酒について紹介されていました。
タモリさんが井戸のお水を飲んでましたね。

今回の『セピア色の写真が語る』はそんな宝塚の酒造りについてご紹介します。


「宝塚の酒造り」

江戸時代、江戸の町で消費される酒の多くは、上方から廻船で送られていました。当時、宝塚の中筋、小浜にも江戸積み酒造業に携わる酒造家がいました。


上方から江戸へ出荷された酒
江戸幕府は酒造統制の基本政策として酒株を発行し、これを持っていない者には酒造りを禁じるとともに、各酒造家が酒造で消費できる米の量の上限を定めました。江戸時代の酒造業の中心となったのが、のちに「摂泉十二郷」と称された地域で、池田・伊丹・西宮・尼崎・北在・伝法・今津・兵庫・大坂三郷・上灘・下灘・堺を指します。北在郷には、宝塚の「中筋」と「小浜」の酒造家が属したことから、宝塚でも酒造業が盛んであったことがわかります。


宝塚にも存在した大酒造家
中筋には、小池治右衛門という大酒造家がいました。万治元(1658)年の記録では、酒造米高が2800石とあり、当時酒造業が盛んだった池田や伊丹の有力酒造家と肩を並べる造り高です。また、小浜では、ぬり屋半左衛門が有力酒造家として記録に残っています。小浜流という独特の醸造法によってつくられた小浜酒は、伊丹と同様に辛口であったとか。宝塚でつくられた酒は、江戸向けの下り酒の一銘柄として、大阪湾から廻船に積まれて出荷されました。

セピア酒樽薦包の印
市域酒造家の酒樽薦包の印 19世紀初頭ころ

(写真・参考文献 宝塚市大事典)


【ComiPa! Vol.45(2016年冬発行号)より】